長崎を離れても、決して消えることのない被爆。

戦後に帰った島で、急性原爆症とみられる発熱、下痢、脱毛に悩まされ、寝たきりの生活を3カ月間送った。再開した学校には一緒に生き残ったはずのしいちゃんの姿はなかった。被爆して1カ月後に亡くなったと先生から聞かされた。

 http://www.passerelle.or.jp/userinfo.php?uid=1217 http://profile.ameba.jp/vasdfyou墓参りがしたかったが、しいちゃんの親からは「外出に誘ったあなただけ元気で生きているなんて。顔も見たくない」と線香も上げさせてもらえなかった。自分を責め、間もなく逃れるようにして長崎を離れた。

 姉を頼り、10代で石川に移り住んだ。ただ、待っていたのは被爆者への差別だった。周囲に反対された結婚を押しきり、長男を妊娠したときも義母から「被爆者からどんな子が生まれるか分からない」と中絶を勧められた。それでも子どもを産み、必死に育てた。

 http://whisper.vivian.jp/mt4.2/mt-cp.cgi?__mode=view&blog_id=1&id=60 http://www.travelog.jp/user/profile/mp_profile.php3?userid=vasdfyou長崎を離れても、決して消えることのない被爆。その現実と向き合うため、8月9日には長崎を訪ねられるようになり、石川で語り部活動も始めた。